選択の自由。誰の?

あけましておめでとうございます。今年はこっちも書きたい。

余りにも放置プレイでついってたけど、今日読んでた3冊の本とキリンジCCレモンホールがぐるぐると頭で渦を巻いていたのが風呂で文字になり、到底140文字では収まらないので、こっちに記録。

今日読んでたのはこの3冊。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

インビジブルハート―恋におちた経済学者

インビジブルハート―恋におちた経済学者

0~4歳 わが子の発達に合わせた1日30分間「語りかけ」育児

0~4歳 わが子の発達に合わせた1日30分間「語りかけ」育児

母であること、娘であること、選択を制限するのは子供扱いだということ、選択の自由があるということが幸せという考え方、子供へのはたらきかけの影響力、自分の行動との相違と一致…
そんなことを考えていて、ライブを見ながら「ああ、この人たちは兄弟であり息子であり…お兄ちゃんは父でもあり、選択の結果ここに居て・・・」とかこれは毎度のことだけど「仕事」する姿に、仕事も選択をするってことで仕事として責任を持った選択をするには知識やら実力やらがいるのだ、と自分を引き比べてその非力さに打ちのめされたりして。

堀込父母はまさかミュージシャンになると思って子育てしてたんではないんじゃないだろうかなぁ。

娘が増えてからの生活ももうすぐ一年になるけど、おおむね楽しい。今のところ。
しかしどうしようも無く胸苦しい気分に襲われることがあって、それは旦那が家事をする量が足りないとか、時間が足りなくて寝る時間が短いとか、行きたいと思ったライブやら飲み会にふらっと行けないとかそういうことなんだろうかと思っていた。
が、問題はそこじゃないんじゃないかと思ったんだ。今日。
ライブ終ったら旦那から娘が吐いてるとメールが入っていて、飲みに行かずにまっすぐ帰ったんだ、私は。そもそも娘は今日午前中医者に行って風邪薬を貰い、旦那がそれを昼間の離乳食の後に飲ませた時も吐いた。水薬なんだけど、味が苦手なのか飲ませると吐く。せっかく食べた離乳食も全部吐く。風邪薬は鼻水と咳を止めてやりたいと思って飲ませてるんだけど、それで吐くって言うのはどうなんだろうねぇと。咳で夜中に目が覚めたり、鼻水だらだらで肌が荒れちゃって痛そうなのを楽にするのと、吐かない(薬を飲ませない)のとどっちの選択が娘の為になるんだろ?と思ったのがスタート。
赤ん坊の世話ってのは、ミルクにするか母乳にするか、保育園に預けるか自分でみるか、旦那に頼むか自分の外出をあきらめるか、オムツはどうする、服はどれだけ着せる、家事をやりたい時はムスメどうする、とか隅から隅までこっちが選択してかなきゃいけない。本人の意見は残念ながら伺えないし、伺えたところでその要望は採用すべきなのか?って所はまたこっちが判断するんだな。
選択の自由があるってのは確かに幸せなことというか、幸せの基本にあるべきものだと思うんだけど、それって自分のための選択じゃないか?他人の人生に影響を与えるかもしれない選択をするのはどうなの?選択をするって事は、結果選択肢が絞られる=選択の幅が狭くなるってことじゃないの?
まぁ、子育てに限らず、他人に影響を与えない選択なんてありえないのだけども、なんというか影響が大きすぎそうで怖いのだ。
お母さんは家族に仕えているか?少なくとも私は家族に仕えろと言われた覚えはないが、きちんとご飯を作って食べさせるとか、ベビーフード使わないとか、睡眠とか生活のリズムを維持しなくてはとかそういう現象としては奉仕しているように見えるものは、結局自分のこだわりに仕えているだけなのだな。自分が良かれと思う基準に沿ってしか、選択できない。しかし、その基準は本当にそれでいいの?とゆらぐことは、本を読んだり人と話をしたりTL見たりするだけでもうんざりするほどあり、その度に誰か決めてくれ!と思うのだ。ムスメにとってなにか最善かを。
いやしかし、それを人の基準にそってやり続けることはきっと私には出来なくて、また最初に戻るんだろうな。そう考えると旦那の基準が私と違い、それについてはイラっとくることもあるけどそれでいいんだろう。
ムスメがもう少し大きくなった時、彼女自身に選択の自由があるようにしておきたい。そのために考えるための道具とタフさを自分も持ちたい。もっと。
私自身も娘として母を恨むことは今のところないので、ムスメもそうだといいなーという希望をもって自分の基準に従っていようと思います。
あと、旦那がウンチオムツのみならずゲロも片付けられる男であるということを私はもっと有難いと思うべきだなと反省した。イクメンどころの騒ぎじゃないぜ。

全くとりとめがないけど、とりあえず書いてすっきりした。